今日は、9日。
5年目の「3,11」を迎えます。
あの日・私は、まだ3月31日で辞める予定の勤務先に居て、
北海道に居ても長い長い時間に尋常では無い何かを感じるだけでした。
私の通っていた高校は、海の側にありました。昭和40年頃の話です。
地震があれば、「津波に注意」という報道は、当時もあったものです。
「にわか作り」というか学校側にも、届けていない「ブラスバンド部の部室」の楽器が
(ブラスバンド部も、認められて居なかった。楽器はあった)
もし、津波があると「流される」くらいの「海抜0m」地帯だった。
夜中でも、「部室を見に行く」といって家を出る事を、とがめられた事は無かった。
明らかに、父も、祖父も「怖い津波」を学習したことも無く、言い伝える事もないほど
何百年も、津波は無かった事になるのでしょう。 と思う。
ただ、神社仏閣は、高いところにあって、我が家も「寺の下」という屋号になるように、
寺と墓地は、子供の頃の遊び場でした。
我が家の隣の家まで「がれき」が押し寄せ、我が家は、大丈夫だったのです。
言わずも「我が家より下の家々のほとんどが、流された事になります」
高台にある家々が、少数で海沿いにある家々が大半な気仙沼なのです。
長く、なりましたが4月になって「ギャラリー通信」に、切手を貼ったハガキを2~3枚
入れて「気仙沼のサークルの皆さん」に送ったのです。
2011年2月3日「絵手紙の日」を、記念したイベントを気仙沼で行い
3月14日・誕生日の私に、
「3月11日午前中・日付の誕生祝い」が、
13日に、届いたのでした。
顔彩も、落款もなにもかも流されて、かろうじてペンを取った「字手紙」を
紹介します。
2月の「大崎」でも出して無く、6月の気仙沼で許されるなら展示する事に?。
思い出して「つらい」という事もあるようですので、その時は出しません。
絵手紙をよりどころに、立ち上がって行く、一緒に立ち上がりましょう!
そんな気持ちを、持ちたいと思っております。